思ったこと 【佐村河内問題について】

最近、作曲家として名の売れていた佐村河内守氏が、実は作曲をしていなかったというニュースがありました。
佐村河内氏自身は作曲をせず、実際にはゴーストライターが曲を書いていたということです。
事の真相はゴーストライターである新垣氏が事実を暴露することで発覚しました。
すでにマスメディアなどでも頻繁に取り上げられ、あらゆる場所で演奏の機会も増えていた佐村河内氏のゴーストライター問題は世間を震撼させました。
また、ソチオリンピックでフィギュアスケートの選手が佐村河内氏が作曲した曲(したと思われていた曲)を使用することがすでに決定してしまったタイミングでの事実のカミングアウトには批判の声も多く見受けられます。
しかし私は今回のニュースを見聞きして、新垣氏に対しては「よくぞ事実を言ってくれた」と感じました。
と言いますのも、昨今の商業主義が蔓延する世の中のモラルの低さに辟易しているところがあったからです。
今回の問題でメディアに出演するコメンテーターの中には「ゴーストライターならばゴーストライターに徹するべき」と新垣氏を批判する人もいたといいます。
私は、大変な憤りを感じました。
確かに、この世の中にはゴーストライターというものはたくさん存在するものだと思います。
それは音楽のみならず、あらゆる業種において言えることです。
しかしながら、公然とそれを「悪くはない」と言ってしまって良いものでしょうか?
仮にも、作品を創るということが特別の意味を持つ芸術の世界において、ゴーストライターという存在に作品を創らせることが悪くないと言えるのでしょうか?
著作権というものを声高に叫び、著作者を守ることの大切さを宣伝しているマスメディアが、ゴーストライターの存在を公然と「悪くない」などと言う事に矛盾はないのでしょうか?
もし悪くないと言うのであれば、そもそも著作権とは何なのでしょうか?それが守られるべき価値のあるものなのでしょうか?

芸術家において作品を創るという行為は、単なる経済活動ではありません。
無論、経済活動が結びついてくる以上、商売の側面が必要になることは純然たる事実です。
しかしながら、商売のために著作者が誰であるかという根幹の部分まで偽装することが良しとされるならば、それはもはや芸術でもなんでもないと私は思います。
一体過去の芸術家はどんな想いで作品を創ってきたのでしょうか?
命を削って、表現するために、作品を創ってきたのです。文字通り、命がけでです。
旧ソビエト時代には反社会主義的というレッテルを貼り、作者に作品の変更を強要するようなことがままありました。
中には自分が創った作品が原因で投獄され、強制収容された後に非業の死を遂げた人もいました。
自分が表現したいことを表現するために、外国へ亡命して極貧生活をしてまで自分の作風を貫いた人がいました。
芸術や音楽、それを命がけで創った過去の人たちへの尊敬の念が少しでもあるならば、そして芸術や音楽というものの尊さや偉大さが少しでも理解でき、愛せるならば、決して「ゴーストライターは悪くない」などという発言はできないものだと私は思います。
それでも世の中には汚いことが蔓延し続けていて、どんなに憎んでも決してなくならない。
そんなことは誰でもわかっていることです。
しかしながら、公然とそれを「悪くない」と言ってしまうならば、もはやその人に美や芸術や音楽を語る資格はないと思います。
自分の作品を命がけで創って、それゆえに名も知れず死んでいった作曲家など五万といます。
彼らは一体どんな想いで、作曲をしたのでしょうか。なぜ、自分の幸福や人生を賭けてまで曲を創ったのでしょうか。
その想いを少しでも慮ることができるならば、なぜ商売のために作者を偽ることが悪いことか、自然と理解できるものだと私は思っています。
そういった当たり前のこと、「ゴーストライターは確かに世の中に蔓延しているが、悪いに決まっている」という当たり前のことが肯定されず、逆に「ゴーストライターは悪くないが、暴露するのは悪い」などという論調を吹聴する昨今のメディアと、世の中の商魂主義・拝金主義に一石を投じたという意味で、私は新垣氏に「よく勇気を持って言ってくれた」と感じたのです。
中には「金目当てで暴露したのだろう」などと批判する人もいますが、私はそうは思いません。
もしお金が目的ならば、なぜ事実の暴露などという危険な方法を取るのでしょうか?
もっと簡単に安全に大金を得る方法があります。
佐村河内氏に「事実を暴露されたくなかったら、私にもっとたくさんの報酬をよこせ」と言えばいいだけです。
佐村河内氏は事実を暴露されたら終わりなわけですから、当然お金を払います。
誰にもばれず、簡単に新垣氏は大金を得ることができるのです。
逆に、事実を暴露したらどうなることでしょうか。
「金目当て」などという批判もされ、それどころか「詐欺に加担していた」ということで今後損害賠償請求の責任の一端を負わされる可能性すらあるのです。
金目当てだとしたら、あまりにも非効率的なのです。
私は新垣氏は音楽を愛し、また過去の偉大な芸術家達への崇敬の念を持っている人だと思いました。
それゆえに、苦しみ続けたのだと思います。もっと早くに言うべきでした。
早く言わなかったがために、オリンピックの使用曲騒動など含め、より多くの人に迷惑がかかる結果となったことは、疑いようもなく新垣氏の責任が大きく、そのために批判もされることは仕方がないと思います。
しかしながら、ゴーストライターという存在そのものは悪くないということを平然と言ってのける人が蔓延する今の拝金主義の世の中には恐怖心すら感じます。
盗作よりは100倍まし、と私は思いますが、ましであっても悪いものは悪いのです。
芸術家にとって大切なことはたくさんありますが、一番大切なことは矜持だと思います。
日本人は矜持を失ってしまったのでしょうか?いえ、失っていないはずです。私はそう信じています。
経済は依然として人々の幸福のために重要なものですが、手段であって目的ではありません。
目的を見失った先には決して幸福など訪れないのです。

恥ずかしながら、私自身は佐村河内氏の曲はほとんど聴いたことがありませんでしたが、ただ1つだけ聴いたことのあるものがありました。
それは以前カプコンというゲーム会社から発売された「鬼武者」というゲームの中で使われた音楽でした。
私はそれを聴いて「すごくゲームの雰囲気に合っている。この作曲者はすごい。」と感じたものです。
結局、その音楽も新垣氏による作曲だったのかもしれません。
私が今後佐村河内氏名義だった曲に関して思うことは、「名義を新垣氏に変えて販売し続けるべき」ということです。
鬼武者の音楽は佐村河内氏が創ったから優れているのではなく、曲自体が優れているだけなのです。
日本人は美談に弱いと言われます。
昔、立川談志氏が言っていた言葉を思い出しました。
「美談が表に出てくるのは嘘くさい。本物の美談は恥ずかしがって人前に出たがらないものですよ。」と。
それを聞いたとき、私は「なるほど。すごい達観だ。確かにそうだ。」と思ったものです。
ジェズアルドというルネサンスの作曲家は人を殺しています。殺人者です。
しかしながら彼の曲は極めて半音階的で独創性に満ちていて、今日においてもその芸術性が輝いています。
残念なことですが、作品の良し悪しと人格の良し悪しは全く関係ないというのが事実です。
それというのも、こと芸術の世界においては狂気や怒り、悲痛や錯乱などといった人格においては好ましくない要素が、美という形で昇華され、作品となって表れることがあるからだと私は思っています。
人々が美談を好むのは当然としても、それを利用して美談で商売をしようとする今日の経済活動は、聴衆である我々も含めて、見直す時期にきているのではないでしょうか。
今回の騒動で私はそのようなことを感じました。

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